第十九回高砂観月能 過去の観月能

過去の観月能の内容をご紹介いたします。サムネイル画像をクリックすると拡大画像が表示されます。

第23回高砂観月能

第23回
 第23回の能は、五番目物 能「春日龍神」(かすがりゅうじん)です。
鎌倉時代。天竺への旅を決意した京都栂尾の明恵上人(ワキ)は、崇敬する春日大社へと暇乞いに参詣する。そこへ現れた一人の老神職(前シテ)。神職は、明恵が春日明神からの信頼厚い人物であること、釈尊滅後の今においては春日の地こそが聖蹟・霊鷲山にも等しき仏法の聖地であることを明かし、出発を思い留まるよう諫める。その言葉を受けて旅の中止を決意した明恵へ、神職は「三笠山に釈尊一生涯の物語を映し出そう」と告げると、自分こそ春日神の眷属・時風秀行の化身だと明かし、姿を消してしまう。【中入】 やがて、三笠山は金色の光を放ち、仏の説法の場が現出しはじめた。春日の里に集結し、法会の座を荘厳する龍神(後シテ)たち。この奇蹟を前に、遂に明恵は旅の中止を高らかに宣言する。その言葉を聞き届けると、龍神は猿沢池へと帰ってゆくのだった。
●小書「龍女之舞」
前シテの尉は、若き宮守を伴って登場する。中入後 間狂言が省略され、直ちに龍女の登場音楽《出端》となり龍女二体が表れ、天女之舞を舞う。舞い終えると、地謡が「龍女が立ち舞う波瀾の袖」と謡い出し、後シテが「八大龍王」と謡い出現する。
謡の詞章が前後し、登場人物も常態の演出にはない、宮守と龍女が登場し、明恵上人の入唐渡天を思い留まらせる、華やかな舞台となる。

狂言 「柑子」(こうじ)
主人が太郎冠者に預けた3つの蜜柑を返すようにという。3つとも食べてしまった太郎冠者は、落ちたからとか潰れたからとか言い訳を言い始める。「それなら、3つ目の蜜柑を出せ」と言われると、鬼界ケ島に流され二人は赦免されたのに一人島に残された俊寛の悲劇を語り、蜜柑も一つだけ残すのは可哀想だから食べたと答える話。

第22回高砂観月能

第22回
 第22回の能は、五番目切( キリ)能「土蜘蛛」( つちぐも)です。
大和朝廷は統一国家を作り上げる過程で、土着の人々を力で征服していきました。これらの人々は、強い武力をもって抵抗しました。この記憶から強い武力への恐れを差別的な意味を込め、これらの人々を「土蜘蛛」や「鬼」と呼びました。
後にこれと、「頼光四天王」と呼ばれた渡辺綱・坂田公時・唯(うす)井(い)貞光・卜部(うらべ)季武らを従えた平安時代の武将、源頼光の武勇伝説が結びつき、出来上がりました。
●「土蜘蛛伝説」
様々な書物で、繰り返し取り上げられています。能は「日本書記」「平家物語」などに見られる「土蜘蛛伝説」を下敷きにして作られました。
●あらすじ
病に臥せる源頼光を深夜に訪ね、蜘蛛の糸を投げる怪僧。頼光は太刀膝丸で応戦します。血痕をたどる独武者らは、土蜘蛛の精を古塚に見つけ、首を討ちます。作者不明〈約50分〉

高砂観月能の舞台 狂言 「察化」(さっか)
連歌の初心講の当番にあたった主人が、都の伯父を宗匠に頼もうと思い、太郎冠者を使いに出します。都へやってきた太郎冠者ですが、伯父の名も住まいも知らないので、物売りを真似て大声で呼び回って歩く。そこにやってきたのは見乞いの察化。察化は太郎冠者を騙して伯父になりすまし、主人の屋敷へやって来ました。
主人は察化の素性を知っているので驚きますが、ことを荒立てては面倒と思い、ふるまって帰そうと、太郎冠者にもてなしを出すが、鶯を思い出そうとしてグイスと言ったり、「鷹」を人のあだ名だと間違えたり失態ばかり。あきれた主人は、すべて自分の口真似をするように太郎冠者にいいつけます。太郎冠者は主人の命令を忠実に守りますが、かえって混乱を招き、主人に倒されると察化を倒してしまいます。

第21回高砂観月能

第21回
 第21回の能は、二番目修羅能「船弁慶」(ふなべんけい)を上演いたします。 このお能は平成10年8月に開催された第2回高砂観月能において上演された演目であります。
 平安時代末。「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉があるように、源平合戦では平家を壇ノ浦まで追い詰め、源氏を勝利へと導いた源義経であったが、運命のいたずらか、そののち兄頼朝と不和になり、都を追われる身となってしまいます。 義経(子方)が、武蔵坊弁慶(ワキ)やわずかな家臣たち(ワキツレ)を引き連れ、義経の愛妾・静御前(前シテ)も供に加わり、都から西国へと下って行きます。 弁慶は時節柄相応しくないと考え、静を都へ帰すよう義経に進言します。 静は義経との別れを悲しみ、一行の前途を祝して舞を舞うと、出発してゆく一行を涙ながらに見送るのでした。
 船に乗った一行が沖へと出てゆくと、俄かに暴風が吹き荒れ、辺りはただならぬ雰囲気となる。やがて、平知盛(後シテ)ら平家一門の亡霊が海上に現れ、一行に襲いかかろうとするが、弁慶の懸命の祈りによって撃退し、難を逃れるのでした。 数年前の華々しい平家追討とはうって変わっての、何とも寂しい流浪の旅の物語です。

狂言 「魚説経」 狂言 「魚説経」(うおぜっきょう)大蔵流
摂津国兵庫の浦の漁師(シテ)は、殺生が嫌になったので、にわか出家し旅に出ます。俄(にわか)坊主なので経も読めず説経もできない。止む無く都へ上り勤め口を見つけようと海道へやってきます。その旅路の途中、信心深い男と道連れとなります。 男は持仏堂で法事をしてくれる僧を探しており、さっそく俄坊主を連れて帰り説経を頼みます。もともとは漁師だったため経を知らない俄坊主が、苦しまぎれに語る説経は、魚の名を並べて説経のように取りつくろいます。
魚の名づくしでもっともらしく語る様子がおかしい作品です。

第20回高砂観月能

第20回
 第20回の能は、五番目物『鞍馬天狗』です。 能を一日で五曲演じる五番立ての最後に演じられるものを五番目物または切能と言います。平成14年、第6回高砂観月能で開催され、源義経の幼少時代を題材にした物語が鞍馬天狗です。能の初舞台は、特に所作も無く登場時間も短いため、多くのシテ方の子供達がこの能において子方を演じることが通常です。あれから十数年経ち、子ども仕舞教室の子ども達や牛若丸を演じた子ども達は、それぞれ立派に成長していると思うと、とても感慨深い演目であります。花見の場所に鞍馬山の稚児達が足元もおぼつかない状態で出演し、天狗に化けた山伏が闖入して帰っていくという前半の流れは微笑ましく見ものです。この時に牛若丸の子方を演じたのは、上野朝彦君です。
 春の京都、鞍馬山東谷の僧たちが稚児を伴って花見の宴を楽しんでいると、ひとりの山伏が花見の宴のあることを聞きつけ、見物に行きます。鞍馬寺の僧たちは、場違いな者の同席を嫌い、ひとりの稚児を残して去ります。僧たちの狭量さを嘆く山伏に、その稚児が優しく声をかけてきました。華やかな稚児に恋心を抱いた山伏は、稚児が源義朝の子、沙那王[牛若丸]であると察します。ほかの稚児は皆、今を時めく平家一門で大事にされ、自分はないがしろにされているという牛若丸に、山伏は同情を禁じ得ません。近隣の花見の名所を見せるなどして、牛若丸を慰めます。 その後、山伏は鞍馬山の大天狗であると正体を明かし、兵法を伝授するゆえ、驕る平家を滅ぼすよう勧め、再会を約束して、姿を消します。大天狗のもと武芸に励む牛若丸は、師匠の許しがないからと、木の葉天狗との立ち合いを思い留まります。そこに大天狗が威厳に満ちた堂々たる姿を現します。大天狗は、牛若丸の態度を褒め、同じように師匠に誠心誠意仕え、兵法の奥義を伝授された、漢の張良(ちょうりょう)の故事を語り聞かせます。そして兵法の秘伝を残りなく伝えると、牛若丸に別れを告げます。袂に縋る牛若丸に、将来の平家一門との戦いで必ず力になろうと約束し、大天狗は、夕闇の鞍馬山を翔け、飛び去ります。
 特に前半では、大勢の可憐な稚児の登場あり、寺男の小舞あり、高僧のお高くとまった物言いありと、盛りだくさんの話を経て、大天狗の化身である武骨な山伏と、孤独な牛若丸との心の交流に至り、どこか詩情を誘う深山の、彩り深い雰囲気が醸し出されます。
 後半には、大天狗のもと兵法を学ぶ牛若丸の、殊勝な心がけに焦点があてられます。牛若丸は師匠を大事にする、凛々しく素直な少年として描かれ、鞍馬の大天狗は、天狗たちの頭領とも目されるような、堂々たる威厳ある姿を現します。花盛りの鞍馬山を背景に、威厳ある大天狗と華やかな牛若丸との師弟の絆を中心に、情趣に富んだ多彩な場面が展開されます。 登場人物が多く、謡や所作も変化に富み、みどころに恵まれた作品です。

第19回高砂観月能

第19回
 能「屋島」は、世阿弥の代表曲である脇能「髙砂」と共に修羅能の傑作であると謂われている。脇能は神の事績を荘厳に表す初番目で、修羅能は二番物として戦で亡くなった者の魂が、修羅道に落ちて苦しみ葛藤する演目である。世阿弥は三番目(女)ものと同じく、修羅者も得意とし、ほかに、通盛、敦盛、清経などの傑作を作っている。
 その中で屋島は、源平の合戦における、義経の勇敢な戦いぶりを描いたもので、勝修羅と呼ばれている。田村、箙(えびら)とならんで三大勝修羅とされ、徳川時代には武家たちに大変好まれた。
平家物語では平氏が一の谷合戦や三草山合戦で敗れたのち、ご当地高砂から屋島・壇ノ浦へと戦いを経る中で、この「屋島」は義経の戦振りを明るく晴れやかに、そして躍動感に満ちたものとして象徴的に描いている。前段では、土地の漁翁が現れて、春宵の屋島ののどかな風景と古戦場の哀愁を喩え、義経の颯爽たる将軍ぶりと源氏方の武将三保の谷と平氏方の梶原景清の錏(しころ)引きの武勇伝を艶やかに回想するなど人をあきさせない内容である。
そして後半は、義経の霊が舞台狭しと駆け回る勇姿として、命よりも武人の名誉を選んだ弓流しの有様と修羅の闘争を描く内容は圧感である。全曲に渡って隙がなく、完成度の高い大曲である。
 世阿弥はこの作品を、平家物語巻十一に見て取ったといわれている。那須与一や佐藤兄弟の話などもあり、読んで楽しい部分である。世阿弥はこの中から、平家方の武将景清と義経自身を取り上げ、スポットライトをあてた。そして、前段では景清の勇猛振りを称え、後段では波に浚われた弓を命がけで取り戻す、義経の天晴れ振りを描いている。 観世流では戦いの舞台からとって「屋島」といっている。 どうぞ源平合戦の世界に身を馳せ、今宵の幽玄の世界を、ごゆっくりとご鑑賞いただきたいと思います。

第18回高砂観月能

第18回
 能「賀茂」は、京都の有名な賀茂(賀茂御祖神社・賀茂別雷神社)の社(やしろ)にまつわる神話を題材にした、脇能です。この高砂市にも伊保に賀茂社が祀られており、中世の播磨国(今の兵庫県南西部)には賀茂社との繋がりが多くあったことが伺われます。ここでは、播磨国の室(むろ)の明神(みょうじん)、現在の室津にある賀茂神社に仕える神職が、ある夏、京都を訪れ、室の明神と御神体が同じと聞く賀茂社にお参りするところから始まります。
 前半では女性のシテとして、里の女たちが水を汲みに登場し、神職はそこで、白羽の矢を立てた祭壇があるのに気づき謂れを訪ねます。里の女は気品のある雰囲気を醸し出しながら、神話を丁寧に語ります。
 この白羽の矢は賀茂社、室の明神の御神体そのものだと教え、その謂れを細かく述べ伝えます。「昔、賀茂の里に住む秦氏の女が、毎日川に出て、神に手向ける水を汲んでいた。ある時、一本の白羽の矢が水桶に止まったので、それを家の軒に挿したところ、男の子が産まれた。その子が、三歳になった時、父はこの矢である、と言った。すると、矢はすぐさま雷、すなわち別雷神(わけいかづちのかみ)となって天に上った」といった。そしてさらに、その母も神となり、矢、母、子の三神が賀茂の三社に祀ってあることを教えた後、女は、そのまま加茂川の清らかな水を汲みはじめます。神職は女が詳しく物語を知っているので、興味を抱き、名を訪ねます。女は名を告げるのは浅ましい、と名乗らず、ただ自らが神であることを明かして、消え失せます。残された神職の前に、末社の神が現れ、あらためて神話を語り、舞を舞います。
 そして後半は、天女に御祖神が登場し、美しい天女の舞をたおやかに舞います。そして、威勢の良い別雷神が登場し舞台を駆け、雷鳴を擬した拍子を踏み轟かせるなど、雷雨を呼び起こして神威を示します。やがて御祖神は糺す(ただす)の森へと飛び去り、別雷神は虚空へ上がっていくという物語でみどころは尽きません。

第17回高砂観月能

第17回
 能「高砂(相生松)」は、古今集(905年)仮名序に「高砂住の江の松もあひおひのやうにおほえ」とあることで有名でありますが、千歳をふる常盤木の相生松と名高い高砂の尉姥二つの松の精が老夫婦として和合長寿を祝う初能(神能物)とし知られ、現在では世阿弥元清の名作として世に知られ、脇能の代表作であり、謡曲100番集の第1番となっています。
 奈良の一猿楽集団であった結崎座は、1374年京都の今熊野で見事な「千歳」の舞を披露し、17歳の将軍足利義満を魅了しました。時に世阿弥12歳、父観阿弥は42歳でありました。
 それより将軍家の絶大な庇護を受け、観世流として約500年の間、武家社会とともにゆるぎない地位を確立し、現在に至っています。
 本年は奇しくも観阿弥生誕680年、世阿弥生誕650年記念の年に当たり、高砂神社も現能舞台が経年の老朽化により修復を多年にわたり計画していましたが、グローバル化による時代の変革とライフスタイル(生活様式)の急激な変化によって家族の存在意義、神々に対する畏敬の念や伝統文化の意味が希薄化しつつある今日だからこそ、古より祖先から受け継がれてきたふるさと高砂の豊かな意味や無形の伝統文化を物語る殿堂としての役割や地域コミュニティーとしてグローカルに次世代が世界に発信できる人として育まれる環境づくりを伝承する中核的施設として相応しい能舞台を新たに造替することとなり、髙砂観月能の会も率先して協力し、今しも竣功を無事迎える事ができます。
 ここに完成披露を兼ねました第17回高砂観月能を開催できますことは、新能舞台の建設にご協力を賜り御浄財をご寄進戴きました皆様と常日頃ご支援いただいております多くの市民の方々のご厚情と深く感謝いたします。
 つきましては、能をはじめ芸術文化と精神文化の殿堂として、地域の発展とともに高砂の文化は、一地域だけのものではなく、日本のこころの故郷として全国の皆様一人ひとりとともにあり続けたいと考えます。
 今後とも多くの情報を発信できることを願い、ご理解ご支援賜りますようお願い申し上げ、今宵の幽玄の世界に観阿弥、世阿弥父子を偲びつつ、ご鑑賞いただきたいと思います。

第16回高砂観月能

第16回
 第16回髙砂観月能の開催テーマは、平家物語といたしました。
 特に高砂は、平家物語にゆかりの地として登場し、一の谷合戦の後、平家一門は須磨は高砂から追っ手を逃れ屋島に舟で渡ったといわれています。
 また、高御位山の南麓の長尾の地には、但馬守平経正が祀られている経政(つねまさ)神社があります。
 「印南郡誌」には、
 寿永の昔、源平合戦の時、一ノ谷の陥るに及び、平氏の一門多く海に浮かびて遁れしが、修理大夫・平経盛の子・経政は逃げ遅れ、西に走りて当地に来たり、終に此の地にて自刃せり。後年、その従士、社を建てて経政の霊を祀る。当社すなわちこれなり。経政、但馬ノ守たれば、里俗今に社の在る地を「但馬の守」と称せり。
と伝えられています。
 このご祭神「平経正」は平清盛の甥で、修理太夫経盛の嫡子。能『敦盛』に平家ゆかりの青葉の笛を操り、笛の名手として登場し、美少年として非業の死を遂げた「平敦盛」の兄であります。官位は皇太后宮亮正四位下。寿永3年(1184)の2月、一の谷合戦において源氏の武者・河越小太郎に打たれ戦死したと平家物語では伝えられています。
 琵琶を愛する貴公子として「竹生島詣」「経正都落」など、琵琶にまつわる叙情性ゆたかな文章で描かれ、和歌もよく詠んだとされています。同時に武勇にも優れていたらしく、源氏追討使に遣わされたり、強訴する僧兵に対して御所警備の任についたとされています。
 このように、高砂に由縁の深い「平経正」を登場人物とする能『経正』を中心に、本年初めての試みとして、平家物語は軍記物といわれていますが、琵琶法師が語り継いで出来た物語であればこそ、抒情を深く官能し、物語に入っていただきたいと考え、音楽の先達として琵琶の名手「経正」と笛の名手「敦盛」兄弟を思い描き、演目「平家物語」を琵琶奏者-片山旭星氏、能管奏者-野中久美子氏の協演において奏でます。
 幽玄の世界に思いを馳せ、千年の時を超え、平家物語の世界をご鑑賞いただきたいと思います。